こんな、ユンミさんの話なんて、どこにでもある、よくあるありふれた話だ。だからこんなの偶然だ。
どこにでもありふれていてはいけない話なのだが、根拠もなく勝手に言い聞かせる。
「アタシのした事はなかった事にはできない。その先の人生をどう生きようと、やった事は消えない」
「ひょっとして、辛い、ですか?」
「辛い? はんっ 何が? 人生が? 辛いだなんて言える立場でもないでしょ」
「って言うってコトは、悪かったって反省はしてるってコトですか?」
「反省? 何をどう考えれば反省になるのかしらね。ひょっとしたら、あの娘はショックで自殺とかでもしちゃったのかもしれないのにさ」
母は見たところ、それほどのショックを受けているようには見えなかった。それは美鶴から見た一方的な感想だが、自殺もしていないし、美鶴も産んだ。
「も、もしも、もしもその人が妊娠しちゃってて、子供産んでたら、どうします?」
「はぁ?」
「もし、子供が生まれてて、この子はあなたの子よって突然言われたら、どうします?」
「子供?」
「もし、養育費くれだとかって言われたりしたら?」
「金ぐらいで済むなら払うわよ」
「育ててくれって言われたら?」
「育てる? このアタシが?」
「じ、事情があって育てられなくなったから、だから代わりに、とか」
そんな話って、あるのか?
言いながら、なんてくだらない質問なんだろうと思う。
そんな美鶴に、ユンミはしばらく思案し、再び上を向いた。
「やめとくわ」
「え?」
「子供なんて育てらんない。ってか、アタシみたいなのを父親にもっても、子供が不幸になるだけでしょ」
「じゃあ、もしも子供が、子供の方が、一緒に暮らしたいって言ったら?」
ユンミは天井を見上げ、しばらく凝視した。美鶴は待った。ヘンテコリンな質問だとは思いながらも、答えを聞いてみたいと思った。それは、きっと、単なる好奇心だ。
「そんな可愛い事言ってくれるンなら、考えちゃってもいいかなぁ」
そこでクククッと喉を鳴らす。
「でも、もし子供が生まれてたら、計算すると今頃は高校生くらいなんだよねぇ」
「え?」
「そうそう、アンタと同じくらい」
ゴロンと身を捩るユンミと、眼が合った。視線を逸らす事ができない。
「そういえばアンタ、父親いないのよね?」
「え?」
ドキッと心臓が跳ねる。
「どんな人が父親なのかは知ってるの? 会った事は? 小さい頃は一緒に暮らしてたとか?」
「知りません。母は結婚はしていないし」
何でもないように答えたつもりだったが、果たして演じきれていただろうか?
「じゃあ、もしも」
そんな美鶴へ向かって、悪戯っぽく笑う。
「もしもアタシがアンタの父親だったら、アンタ、どうする?」
「へ?」
「アタシが、アンタの父親だったら?」
ユンミさんが、私の、父親?
紫の唇がニヤリと歪んでいる。
「わかりません」
ユンミなら構わないかも。
一瞬、そう思った。
だが、やはり過去に事件などを起こしている人物をそうもアッサリと容認してしまうのは、なんとなく気が引けた。
ユンミさんはイイ人だけれど、だけど。
過去に事件を起こしていようが、今のユンミがイイ人なのだから、それでいいのではないだろうか。過去に拘るなんて、それではユンミが可哀想だ。
だがそう考えるのは、ひどく無責任であるような気もした。
そもそも、ユンミの何が可哀想だというのだ?
曖昧な答え方をした美鶴に腹を立てるかと覚悟したが、ユンミはほとんど表情を変えなかった。
「そう」
呆気ないほどあっさりと引き下がった。相手の言葉に、全身の力が抜けるのを感じた。
私、緊張してるのか?
全身が湿っぽいのを感じ、モソリと身体を動かす。すると、伸びをしたくなった。
「そうよねぇ」
少し自嘲気味に、でも楽しそうに笑う。
「いきなりアタシが父親だなんて言われてもねぇ。だいたい、母親が強姦されて自分が産まれただなんて、そんな事知ったらショックで父親がどうのこうのって話どころじゃないわよねぇ」
「あはははは」
ここは笑って誤魔化そう。
「で、でも私、ユンミさんが父親だったら、毎日が楽しいかもって」
「あぁら、嬉しい事言ってくれるじゃない」
ペロリと舌で舐める。
「でもダメよ。アタシなんて、男喰いモノにしてるだけのケダモノなんだから」
「け、ケダモノだなんて」
「アンタの事だって、いつ誰かに売っちゃうかわからないし」
「う、売るっ!」
ガバリと両手で身体を抱く。そんな相手にカラカラと笑った。
「冗談よぉ。そんな事するならとっくにやってる。アンタにそんな事はしないわよ」
「じゃあ、他の子を売っちゃうって事はしてるんですか?」
それって、ば、売春って事だよね?
伺うような視線に鼻を鳴らす。
「さぁ、どうでしょうねぇ」
「どうして、私にはしないんですか?」
そもそも、どうしてこんなに親切なんだろう? こっちから転がり込んどいて言うのもなんだけど。
「アンタは可愛いから」
「か、可愛い?」
「そ」
言って、瞳を閉じる。
「アンタ、見てると気持ちいい」
「なんですか? それ」
「なんなんでしょうねぇ」
「答えになってないと思うんですけど」
「答えてるじゃない」
「意味がわからない」
「じゃあ自分で考えな。唐渓の生徒なんでしょう? 頭いいんでしょう?」
「勉強とは違いますよ」
「とにかく、そんなこんなでアタシは社会の隅でイジけてそのまま元の生活に戻れなくなったってワケよ」
「戻ろうと思えば戻れるんじゃないんですか?」
「戻ろうと思えばねぇ」
「戻ろうと思ってはいないって事ですか?」
「うーん、そういうワケではないんだけどねぇ」
なんだか声音が虚ろ。
「どっちなんです?」
「どっちでもいいワよ」
「どっちでもいいって。ねぇ、ユンミさん?」
もう返してはこない相手。どれだけ待っても返答は無い。
「ユンミさん?」
一分ほど待って、美鶴はおそるおそると腰を浮かせた。仰向けのユンミを覗き込む。
「寝てるし」
仕方なくそばを離れ、部屋の中央で仁王立ちになって紅茶を飲み干した。
「偶然だよ」
その呟きがユンミに聞こえたのかどうかはわからない。
「どうせ解ってもらえないと決めてかかって」
美鶴は唇を尖らせる。
どうせ周囲など私を嗤っているにきまってる。澤村を好きになるなんて、どうせ私はバカな女だ。どうせ私は母親の収入でしか生活する事のできない無力な子供だ。
「今の僕は経済的にも人間的にも自立していない。父親に弱みを握られているようなものだ」
瑠駆真も、同じように思っているのだろうか。どうせ、どうせ自分など。
「ラテフィルに行きたくないのなら、ちゃんと言うべきだよ」
と、今の美鶴が呟いたところで、何の説得力もありはしない。
「まだ逃げ回ってるの?」
「逃げてなんかいないよ」
言い訳に聞こえるところが虚しい。
ちゃんと向かい合って説得したら、そうしたら瑠駆真だって、わかってくれるのかな? 自分がそういう態度を見せれば、瑠駆真だって、わかってくれるのだろうか? あの頭のイイ瑠駆真が自分の行動に感化されるとは思えないけれど。
「でも、別に私だって逃げてるワケじゃないし」
「詩織ちゃんは、決して現実からは逃げない子よ」
進路に悩み、母の過去が知りたくなって岐阜へ行った時、綾子にそう言われた。
母は、逃げない。
ゴクリと唾を飲み、目の前の寝顔へ視線を投げる。
偶然だよ。お母さんとユンミさんは関係無い。そうだ。そうに決まっている。
だが、母が学生時代、男に犯されたのは間違いない。
そうして母は、今もしっかりと生きている。
「何事も、そんな中途半端な心構えじゃ実らないけどね」
ゴロンとソファーに寝そべりながら母はそう言った。あれは冬で、女子がソワソワと胸を躍らせる季節の朝の出来事だったように記憶している。
「アンタ、世間を甘く見ない方がいいわよ」
「アンタみたいな小娘をあの霞流さんが相手にするとは思えないけどねぇ」
母から見れば私など、単なる小娘にしか見えないということだろうか。
そんな事ないっ!
両手を握り締める。パックを握り潰しそうになる。
私にだって、この状況を打破する力くらいはあるはずだ。絶対に。
「負けたくなかった」
紫の蛍光ペンを振り回しながら必死に抵抗する少女。彼女は決して諦めなかった。
私だって負けない。負けたくない。
ユンミの寝息が聞こえてくる。本当に寝てしまったようだ。
生き抜く力。それが自分には無かったと、ユンミは言った。
自分には?
こんな事をしていても何の問題解決にもならない。なんとか状況を打破しなければ。それが生き抜く力だと言うのならば。
空になった紅茶のパックの底で左の掌をポンっと叩く。
確かに、唐渓に通う生徒たちだったら、こういう状況に置かれた場合、ただ事を静観しているだけとは思えない。奴らはとにかく気は強いし負けん気も強いし。
唐渓に集う奴らのようになりたいとは思わないけれど。
口をへの字に曲げ、足の爪先を睨んだ。
なんとか、しなければ。
|